塾やるのって大変?
家庭教師として7年弱勤めたのち2007年4月から個人指導の塾を始めました。仕事のこと、趣味のことなど、色々ととりとめもなく書いてみようと思います。
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街道をゆく
19 中国・江南のみち

江南というのは長江の下流域です。
昔でいうと呉越同舟の呉や越があったあたりです。(楚も)
いまなら、上海・蘇州・(お酒で有名な)紹興があるあたり。

僕は中国には1回だけいったことあるんですが、
この地域は知らないので、いまいちピンと来ませんでした。

おもしろかったのは、
ウダツが江南の地にもあった、という話です。
(ウダツに対する司馬氏の強いこだわりが面白かったんです)

ウダツ、というのは家の壁面を屋根より高くしたようなもので、
その面をシックイで固めることで、防火の役割を果たします。

ウダツをつくるのは(ウダツを上げるというそうです)
けっこう費用のかかることらしく、
当然本体の家もそれなりのものでなければ意味がありません。

で、ウダツのついた家を建てられるような状態が
「ウダツが上がる」ですし、その逆が
「ウダツが上がらない」状態です。

ウダツの語源は司馬氏の本で初めて知ったんですが、
他にもこの人の本を読んでて初めて語源を知った言葉、
というのがけっこうあって、そういうのがけっこう好きです。
(マトモ、って言葉の語源も別の本で知りました)

20 中国・蜀と雲南のみち

蜀は現在の四川省、雲南は雲南省(そのままです)です。

蜀は三国志の好きな僕にはちょっと惹かれる地です。

旅としては雲南にいってみたい。
雲南は少数民族の宝庫?で、いまでも数十の民族が
生活しているらしいです。

民族衣装っていうのがけっこう好きです。
特に女性の。
おそらく、いろんな民族の女性を一番奇麗にみせるのが
それぞれの民族衣装だ、というのはよく聞きますよね。
(日本なら着物。ベトナムならアオザイ。インドならサリー)

出来れば、雲南にいっていろんな民族衣装の女の子を見て、
「ああ、かわいいなあ」とか
「ああ、奇麗だなあ」とかいって
日がな一日過ごせたら、けっこうそれだけで幸せかな、と思います。

今回は本の内容とあまり関係ない話になってしまいました・・・
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17 島原・天草の諸道

島原・天草、とくれば主題はひとつしかないですね。
そう、島原・天草の乱(一揆)です。

皆さんもよくご存じかとはおもうので、
乱そのものの記述は避けます。

興味深かったのは、一揆の終結後、
幕府が九州各地の藩、または天領(幕府の直轄領)から
住民を移民させたことです。

つまり、島原地域からは農民らしい農民がいなくなったため、
他の地域から人を入れるしかなかった、
ということになります。
単なるキリシタン一揆ではなく、ほぼすべての農民が加わった
一揆であった、ということがわかります。

当時の大名の松倉、というのがあまりにもひどいことをしていたので
農民にとっては一揆でしぬか、圧政でしぬか、
という選択肢しかなかったのだろうとおもいます。

現在の日本も一揆、というか革命が起こっても
おかしくないくらい良くない状態だと思ったり…

18 越前の諸道

越前、つまり福井県は僕にとって近くて遠い、というイメージです。
今は金沢にすんでますし、生まれは京都の舞鶴なので、
福井というのはつねにお隣、というかんじなんですが、
コレってイメージがあんまりないんです。
はっきりいって印象が薄い。福井の人ごめんなさい。

で、永平寺の話が出て来るんですが、僕はいったことないです。

永平寺は道元という、曹洞宗という禅の一派を開いた人が
総本山として建てた寺です。
が、道元後の曹洞宗は派閥闘争みたいなこともあって、
本来の禅の雰囲気からはかけ離れていきます。

思うんですが、創始者の教えを変えることなく
守りきっている宗教、宗派ってあるんでしょうか?

いろんな思考錯誤(ほんとは試行錯誤ですが、あえて)の末に
創始者を超えた!っていうんなら分からないでもないんです。

が、多くの宗教・宗派は創始者を神格化しながらも
その教えからはどんどんずれていってるように感じます。

まあ、僕が勝手に思ってるだけ、かもしれませんが。
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15 北海道の諸道

松前藩の話がでてきます。

松前藩というのは、一応格式として10万石、となってますが、
コメの生産はありません。
収入はすべて北前船の上納金や、アイヌからの収奪にたよってます。

アイヌと日本の関係はどうであったか、
また、アイヌ自身は大陸とも交易をさかんにしてたりして、
やはり、一般的な日本人とはちがうわけで、
その辺の話、小説はけっこう好きです。
先日チラリとかいた佐々木譲の小説にもよくでてきますし、
船戸与一の「蝦夷地別件」という小説もおもしろいです。

さいごにすこし、関寛斎という人物がでてきます。
幕末から明治にかけての人物です。
徳島で医者をしていたのですが、
73歳で北海道に渡って開拓民になります。

73歳で開拓を始めよう、という意志がすごい。
さらに10年後に83歳で自殺します。これもすごい。

わかい時の自殺は命の重さを理解してないからだ、という説があります。
歳をとるほど、自分の生きてる有難みがわかって来てしねないものだ、と。

関氏は73歳で北海道の原野にはいるくらいの人ですから、
なにかに絶望して死を選択したとは思えません。

とことんまで自分の限界というものを追及して、
限界を感じた時に、自分の命の幕も下ろしたのか、とおもいます。

自殺の善悪は別として、すさまじい生き方だと感じました。

16 叡山の諸道

正直、僕は宗教を持たない人間なのでアレですが、
比叡山の千日回峰行というのはさすがにすごいと感じます。
どういうものかは、どっかのサイトからコピーしてきました、ハハハ。

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7年間をかけて通算1000日の間行なわれます。

最初の3年間は、1年のうち100日だけ行が許され、
1日30Kmを歩いて255ヶ所の霊場を巡拝します。
続く2年間は1年に200日、同じ修行を行ない、
この5年間で通算700日となります。

で、それから、9日間
断食、断水、不眠、不臥の行 を行うそうです。

6年目は1年間に100日の行となります。
1日に歩く距離は60Kmと倍増し、巡拝する場所も266カ所に増ます。

7年目は、前半の100日間が1日84Km、300カ所の巡拝となります。
1日にこれだけの距離を歩くとなると睡眠時間はわずか2時間。
夜中の12時に起きて歩き始めるそうです。

最後の100日間は当初の1日30Kmの行に戻ります。

以上はコピー
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これを全部達成すると阿闍梨といわれるようになるようです。

べつの本で読んだことがあったんですが、
毎年の100日とか200日というのは
かならず連続でないといけないらしく、
何年目であろうと一日でも休んだらそこで行はおしまい、
なんだそうです。
で、再チャレンジとかは一切なし。
チャレンジは一生に一回だけ。

だから、風邪もひけないですし、体調も崩せません。

昔は途中で失敗してしまって、自殺する人もいたらしいです。

宗教うんぬんを別にすると、
こんなことができる人たちってどんなだろ?と思います。
オリンピックに出るアスリートよりも
よっぽどこちらの方が超人、って感じがします。

浄土真宗なんて「南無阿弥陀仏」だけいえばいいんだから、
楽ちんでいいですね〜。
だから真宗が下、とかそういうことでは決してありませんが。
街道をゆく
8月にブログはサボり気味でしたが、
気がつくと「街道をゆく」も19巻まで読んでおり、
遅ればせながらも少しずつまた書こうとおもいます。

13.壱岐・対馬の道

僕は、恥ずかしながら今まで、
壱岐と隠岐をけっこう混同してました。

対馬の話は以前にもあったので、
司馬氏がこの地域に持っていたつよいこだわりを感じます。

すなわち、司馬氏のこだわりとは
日本がどのようにして出来ていったか、
であるのかなあ、と。

九州から壱岐、対馬といくとそのまま朝鮮半島にあたります。

当然、この地域は日本のほかのところよりも
朝鮮半島の影響を色濃く受けています。

中世以前は非常に大きかった朝鮮の影響が、
時代とともに小さくなっていくのが
不思議な気もします。

おそらく、漢字、製鉄、仏教、などは
すべて朝鮮を経由して日本に来たとおもうんですが、
秀吉の朝鮮出兵時に九州の大名たちが連れてきて伝わった
陶磁器が日本に根付いた最後の朝鮮文化ではないかと思います。

やっぱり近くて遠い国、なんでしょうか。

14.南伊与、西土佐の道

宇和島というのは四国の中でも言葉(方言)がだいぶ異なるそうです。

その原因は江戸時代、宇和島藩が伊達氏であったからです。
(もちろんあの伊達政宗の)

当時はある程度の規模の藩というものは支藩というものを作ります。
本家の本藩の血筋が絶えた時のための予備、みたいなものです。
(徳川家の御三家や御三卿が好い例です)

そうすると仙台から新しい殿様をはじめとして、
家臣一同でお引越しとなるわけです。

むかしは各地でも武家言葉と町民言葉は違っていたようですから、
宇和島の武家言葉の部分に東北訛りが入っても不自然ではないですね。

あと、面白かったのは
経済的に南伊与と西土佐が密接に関わっていた、ということです。

南伊与はこの周辺ではかなり早く商品経済が発達したため、
西土佐にも商品を輸出?していました。

経済が発達した地域の人間から見ると、
遅れた地域の人間はバカ(言葉は悪いですが)に見えてしまう、
というのは世界で見てもかなり普遍的でありそうです。

で、南伊与の人たちは西土佐の人をバカ扱いする。
西土佐の人たちは南伊与の人を信用できない狡賢い人と見る。

ただし、この話の中でも南伊与人の元先生の話が印象的でした。

「自分の生徒(南伊与人)は事務能力の高い奴ばかりで、
 あちら(土佐)のようにでかい奴(坂本竜馬のような?)が
 全然おらん」

ちょうど、前回の記事で少しだけ、
嫌中派・嫌韓派という話をしたんですが、
視点を少しかえる、視野を少し広げる、ということをするだけで
もっと違うものも見える、

という点で、この話は好い例だなと感じました。


最近の読書
最近ブログがサボり気味だったので
「街道をゆく」もすこし先にすすんでいるので、
まとめて書いてしまいます。
ホントは書きたいことはいろいろあるんですが…(言い訳)

「10 羽州街道、佐渡のみち」

羽州はだいたい今の山形です。(出羽の国ですね)
これについてはべつに書きたいことがあるので
ちかいうちに書きます。
ヒントは前回読んだ越後(新潟)と共通するあることです。
なんかもったいぶってるような…ハハハ。

佐渡は島流しと金山のイメージが強いですね。
佐渡の金は平安時代から有名だったそうです。

ただ、金山経営が盛んになるのは江戸時代で
金というものにたいする日本人の価値観が
それ以前はそれほど重くなかったようです。

「11 肥前の諸街道」

肥前はだいたいいまの長崎でしょうか。

この司馬氏の、現代の街を歩きながら
昔に想いを馳せる書き方はかなりロマンチックではあります。

この地域はもしかすると、日本のなかでも
最も海外との接点が多かったところかもしれません。

遣隋使・遣唐使、蒙古の襲来、倭寇の基地、
戦国期の平戸・長崎の南蛮貿易、鎖国中の長崎貿易

とすべてこの地域は大なり小なり関わって来ています。

倭寇全盛の頃は、この地域の人達は
「ちょっと海を渡って一暴れするか」
って感じで船を出していたのかな、
と思うとちょっとワクワクします。
実際には倭寇は海賊というだけでなく、
密貿易者という一面もあったらしいのですが。

「12 十津川街道」

十津川は結構馴染みのない地名かも知れません。
幕末が舞台の話を読んだことがある方は知ってるかも。

十津川は奈良県の奥地の奥地、にあります。

おそらく日本に桃源郷というものがあれば
(ユートピアの意味でなく、
 未開すぎて租税の対象にならなかった、という意味で)
それは十津川くらいかも、と思います。

実際、十津川というのは日本が明治以降の近代国家となるまでは
租税の義務を負うことがなかったらしいです。

そういう点では十津川は小さな自治国家であったとも言えます。
が自治を守るために、必要があれば人をだす、ということは
ずっとおこなっていたそうです。

いざというときに人(兵)は出す。見返りは求めない。
ただ、従来通りの自治と免租を認めてもらう。

ですから、幕末期、十津川郷士は勤王志士としては有名でしたが、
維新後に役人としてなりあがった人はほとんどいないようです。
(薩長土肥とは正反対ですね)

国家がその自治と独立を維持するためには
それなりの代償がやはりなにかの形で必要、なのでしょうか。

今回は数冊読んだあとなので話しもグダグダになってしまいました。